LOGIN卓上の暦に記された日付を見つめたまま、エララは息をすることさえ忘れていた。
月暦七百十二年、春告げの月十七日。それは、王太子ルシアンとエララの魂に刻まれた番印が、本物であるかどうかを大聖堂で確かめる儀式の日だった。王家とヴェイル公爵家が十年以上も準備を重ね、国中へ祝賀の触れを出し、エララが正式な王太子妃となるはずだった日でもある。
一度目の人生では、この日を境にすべてが崩れ始めた。
「エララ様、本当にどうなさったのですか。朝から様子がおかしいですし、先ほどは私が生きているかどうかまでお尋ねになりました。嫌な夢をご覧になったのなら、そう仰ってください。何も分からないまま怯えられると、私まで自分が何かしてしまったのではないかと怖くなります」
侍女のリナは心配そうに眉を寄せながら、寝台の前へ膝をついた。まだ十八歳だった彼女は、ヴェイル公爵家へ奉公に来て二年しか経っておらず、礼儀作法も完璧とはいえなかったが、エララが食事を忘れて執務へ没頭していると、叱られることを承知で焼き菓子を机へ置いていくような娘だった。
一度目の人生では、エララが投獄された直後、父の命令によって屋敷を追い出されている。故郷の村へ戻る途中で馬車ごと消息を絶ち、遺体すら見つからなかった。
そのリナが今、少し寝癖の残った赤褐色の髪を揺らしながら、手を伸ばしてきた。
「お熱があるのかもしれません。失礼いたしますね」
額へ触れようとした手を見た瞬間、エララの視界が暗くなった。
手ではない。
火刑台へ身体を固定するため、手首へ巻かれた銀鎖だった。魔力を封じる棘が皮膚へ食い込み、逃れようともがくほど肉が裂けた。鎖を握っていた執行人は、泣き叫ぶエララへ、すぐに終わりますから動かないでくださいと穏やかに言った。
「触らないで!」
エララは反射的にリナの腕を払いのけた。
リナの肘が水差しへ当たり、銀の器が床へ落ちた。乾いた音が部屋へ響き、水が絨毯へ広がっていく。驚いたリナはその場に尻餅をつき、叩かれた手首を押さえながら、何が起きたのか理解できないという顔でエララを見上げた。
エララも、自分がしたことをすぐには理解できなかった。
「ごめんなさい。リナ、違うの。あなたが嫌だったわけではなくて、私はただ……」
「ただ、何ですか。私の触り方が乱暴でしたか。それとも、起こすのが遅かったことを怒っていらっしゃるのですか。私が鈍いのは自分でも分かっておりますが、何が悪かったのかも教えていただけないまま怒鳴られるのは、さすがに困ります」
リナは泣きそうになっていた。それでも、自分が悪いのだと決めつけて謝るのではなく、何が悪かったのか説明してほしいと言った。
昔のエララなら、その態度を不敬と考えたかもしれない。主人へ言い返せば侍女の立場が悪くなるから、もっと賢く振る舞いなさいと諭し、自分は寛大な主人であるつもりになっていただろう。
しかし、リナの怯えた顔を見ていると、エララの胸を満たしたのは怒りではなく、自分もまた、理由を告げずに相手を傷つける側へ回ってしまったという嫌悪だった。
「あなたは何も悪くないわ。私が、少し前まで両手を縛られていたような気がして、触れられた瞬間に身体が勝手に動いてしまったの。そんなものは言い訳にしかならないけれど、あなたを叩こうとしたわけではないのよ。本当にごめんなさい。手首を見せてくれる?」
「両手を縛られていたような気がするなんて、いったいどのような夢をご覧になったのですか」
「夢ならよかったのだけれど」
エララが手を差し出すと、リナは少しためらってから、自分の手首を預けた。幸い、赤くなっているだけで傷にはなっていない。エララは治癒の祈りを唱えようとしたが、声が途中で震えた。
喉の奥へ煙が入り込んだ感覚が蘇り、息が詰まった。
身体には何の傷もないはずなのに、焼けた喉が空気を拒み、両脚へ炎が這い上がってくるような痛みが走る。エララは胸元を押さえ、必死に呼吸を整えようとしたが、吸えば吸うほど甘ったるい月桂油の匂いが鼻の奥に戻ってきた。
「エララ様、もうよろしいです。私の手首より、ご自分の顔をご覧になってください。真っ青ではありませんか。すぐに医師を呼んでまいります」
「待って。誰にも知らせないで」
「ですが、今日の儀式で倒れたりしたら、私が叱られます。エララ様はご自分のことになるとすぐに、少し休めば治る、祈れば何とかなると仰いますけれど、それで実際に休んだことなど一度もないではありませんか」
「そうね。私は、ずっと同じことを言っていたのね」
「感心している場合ではありません。せめて侍女長にはお伝えします。私一人で黙っていて、後で何かあれば、今度こそ田舎へ帰されてしまいます」
その言葉に、エララは息をのんだ。
リナはまだ、自分が一年後に本当に追い出され、故郷へ帰ることさえできずに消えるとは知らない。彼女にとっては、侍女長から小言を言われる程度の未来しか存在していないのだ。
「帰させないわ」
エララは思わず、リナの手を両手で包んだ。
「あなたをこの屋敷から追い出させたりしない。私のせいで職を失わせることも、帰る途中で一人にすることも絶対にしないから」
「エララ様、やはりおかしいです。私は今朝、寝坊もしておりませんし、追い出されるほどの失敗はしていません。それなのに、どうして今にも泣きそうなお顔で、そのような約束をなさるのですか」
リナが戸惑うのは当然だった。
エララは説明しようとして、言葉を失った。自分が火刑に処され、一年前へ戻ってきたのだと話したところで、信じてもらえるはずがない。たとえ信じてもらえたとしても、一年後に何が起きるかを知ったリナは、今日から恐怖を背負って生きることになる。
「ひどく長い夢を見たの。あなたがいなくなり、私も大切なものを全部失う夢だったから、まだ頭が混乱しているのだと思う」
「それなら最初から、そう仰ればよかったのです。怖い夢を見たので手を握っていてほしいと言われれば、私は儀式のお支度が遅れても、叱られる覚悟でお付き合いします。エララ様は、何でも一人で我慢してから、限界になったところで周りを驚かせるので困るのです」
「主人へ向かって、ずいぶん遠慮のないことを言うのね」
「エララ様が、正直に話しなさいと仰ったのではありませんか。それに私は、先ほど理由も分からず怒鳴られたのですから、これくらいは許されると思います」
「そうね。今日のところは、あなたの言い分が正しいわ」
「今日だけでなく、いつも私の言い分が正しい可能性も少しはお考えください」
口を尖らせたリナを見て、エララはかすかに笑った。
一年ぶりに笑ったはずなのに、その感覚は妙にぎこちなかった。火刑台でケイルへ向けた笑みとは違い、誰かと明日も会えることを前提にした笑い方を、身体が忘れてしまっている。
エララは寝台から下りた。足裏が絨毯へ触れた瞬間、炎に焼かれた両脚が崩れ落ちるような錯覚に襲われたが、リナへ悟られないよう寝台の柱をつかんで耐えた。
鏡台の前へ立つと、そこには二十一歳の自分がいた。
淡い金髪は腰まで艶やかに伸び、地下牢で刃物を入れられた灰青色の瞳にも傷はない。頬は痩せこけておらず、唇にも血の気がある。寝衣の袖をまくれば、銀鎖に裂かれたはずの手首は滑らかで、火傷の痕も見当たらなかった。
それでも、鏡の中の自分と目が合った瞬間、エララは息を止めた。
映っている顔は若返っているのに、その瞳だけは火刑台の上で死んだ女のものだった。愛されるために正しくあろうとし、正しくあればいつか報われると信じ、最後には誰にも見てもらえないまま焼かれた女が、若い身体の内側に取り残されている。
エララは自分の頬へ触れた。
指先へ伝わる体温は確かだった。鏡も、暦も、リナの怒った声も、死に際に見る都合のよい幻とは思えないほど細部が鮮明だった。
「リナ、今日は春告げの月十七日なのね」
「先ほどから申し上げております。王太子殿下との番選びの儀式がある日です。王都中の貴族が大聖堂へ集まりますし、国王陛下と王妃陛下もご臨席なさいます。今さらお忘れになったとは言わせませんよ」
「私の衣装は、銀糸で月花を刺繍した白い礼装だったかしら」
「昨日、ご自分で最終確認をなさったではありませんか。ミレル様はお姉様を引き立てるため、淡い青の礼装になさるそうです。ご本人は少し寂しそうでしたけれど、今日の主役はエララ様ですから仕方がありません」
その言葉を聞き、一度目の記憶がはっきりと輪郭を取り戻した。
儀式の前、ミレルは姉の幸福を心から願っていると言い、滋養薬を差し出した。緊張で食事が喉を通らなかったエララは、妹の気遣いを嬉しく思い、疑いもせずに飲み干した。
大聖堂へ到着して間もなく、激しい目眩と動悸に襲われた。聖壇へ手をついたエララの腕から番印の光が消え、その直後、見学席にいたミレルとルシアンの身体へ同じ銀色の紋章が浮かび上がった。
教会は、月神が真の番を示したと宣言した。
ルシアンは驚きながらも、どこか安堵した顔でミレルの手を取った。エララへ申し訳なさそうな表情を向けたのは、ほんの一瞬だけだった。
あの日の自分は、何も理解できないまま二人を祝福した。王太子の真の番が妹なら、自分は身を引くべきだと考え、胸が裂けそうに痛んでも、聖女らしく微笑み続けた。
その一年後、同じ大聖堂の前で火刑に処された。
「エララ様?」
リナの声に呼ばれ、エララは鏡から目を逸らした。
「入浴の支度をお願いできるかしら。ただし、湯はぬるくしてちょうだい。できれば、水に近いくらいで構わないわ」
「この季節に冷たいお湯へ入れば、お風邪を召します。温かい湯へ薬草を入れたほうが、悪い夢の気分も抜けるのではありませんか」
「温かいものが、今は怖いの」
リナは何かを尋ねかけたが、エララの顔を見て思い直したらしい。
「分かりました。理由は後でお聞きしますから、今はぬるい湯をご用意します。ただし、身体が冷えたらすぐにお上がりください。今度は私が触れる前に、触れてもよいかきちんと尋ねます」
「ありがとう。そうしてもらえると助かるわ」
リナが隣の浴室へ入り、侍女たちへ指示を出し始めた。
一人になったエララは、もう一度暦を手に取った。指で日付をなぞり、窓から見える庭の花と照らし合わせても、現実は変わらない。
時間が一年前へ戻っている。
なぜ戻ったのかは分からなかった。
エララ自身には、時間を操る力などない。彼女が扱えるのは傷を癒やす聖力と、契約に宿る嘘を見抜く誓紋の力だけだった。死の直前に特別な祈りを捧げた覚えもなく、月神へ助けを求めてもいない。
最後に聞いたのは、ケイルの声だった。
『次の人生では、俺を先に選べ』
あれは単なる願いだったのか。それとも、竜皇の言葉には本人さえ知らない力があったのか。考えても答えは出なかったが、少なくとも一つだけ確かなことがある。
エララには、もう一度選ぶ機会が与えられた。
それなら、今度こそ選び間違えてはならない。
この屋敷から逃げ、身分を捨てて遠い土地へ行くことも考えた。今日の儀式を欠席すれば、ルシアンとミレルの番印が公に示されることもなく、エララが恥をかくこともない。王都を離れて名前を変えれば、少なくとも火刑台へ立たずに済むかもしれない。
けれど、エララが逃げるだけでは、リナの未来は救えない。父は家名を守るため、今度も別の誰かを差し出すだろう。ルシアンは自分の判断から逃げたまま王となり、ミレルは教会と王家に都合のよい王太子妃として利用される。
何より、エララを殺したのは、毒を盛った一人の人間でも、処刑命令書へ署名した父やルシアンだけでもなかった。
聖女ならば国のために身を捧げるべきだと教え、王太子の番ならば本人の意思より王家を優先すべきだと決め、役に立たなくなった女を罪人として焼けば秩序が守られると信じた仕組みそのものが、彼女を火刑台へ運んだのだ。
エララ一人が逃げても、その仕組みは残る。
次に都合の悪い女が現れれば、今度はその女が聖女の代わりに焼かれるだろう。
「嫌よ」
エララは鏡の中の自分へ言った。
「私はもう、誰かのために黙って死ぬつもりはない。けれど、私が助かるためだけに、別の誰かが同じ場所へ立たされるのも許さない。私を殺したものが人ではなく仕組みなら、今度はその仕組みを壊してから生き延びるわ」
口に出した途端、恐怖が消えたわけではなかった。未来を知っているからといって、すべてが思いどおりになる保証もない。一度目とは違う選択をすれば、その瞬間から先の出来事は変わり、エララが持つ記憶も完全な道標ではなくなる。
それでも、何も知らずに愛されることを待っていた一度目よりはましだった。
まずは、ミレルが持ってくる滋養薬を調べる。
次に、大聖堂でルシアンより先に自分の意思を告げる。彼がミレルを真の番だと宣言し、エララを捨てることで悲劇の王子を演じる前に、こちらから婚約を拒絶する。
その後は、王家から母の遺産と未払いの聖女報酬を取り戻し、王都を出るための道を作る。父もルシアンも教会も、エララが従順に泣き寝入りすることを前提に動いていた。その前提を一つずつ壊せば、彼らは必ず本性を見せる。
そして、可能であれば、ケイルへ知らせなければならない。
一度目の彼は、敵国の結界を破り、すべてを敵に回してエララを救いに来た。間に合わなかったと謝った彼へ、今度はエララのほうから、まだ生きていると伝えたかった。
ただし、彼を選ぶかどうかは別の話だった。
「次は俺を先に選べ、なんて、死に際の女へ随分と勝手なことを仰ったものだわ」
思い出すと、胸の奥がわずかに温かくなった。
その感覚に気づいたエララは、すぐに自分を戒めた。ルシアンへ人生を預けた失敗を繰り返すつもりはない。ケイルが救いに来たという一つの事実だけで、彼を理想の伴侶と決めるのは危険だった。感謝と恋情を混同し、強い男に守られることで安心を得ようとすれば、結局は別の檻へ移るだけになる。
次の人生では、自分の足で立つ。
そのうえで、ケイルが隣に立つに値する男かどうかを見極める。彼が言ったとおり、選ばせてやればよい。
浴室から戻ってきたリナは、鏡台の前で決意を固めているエララを見ると、警戒するように目を細めた。
「先ほどまで死にそうなお顔をなさっていたのに、今度は誰かと戦争でも始めそうなお顔になっています。極端すぎると思うのですが、大丈夫ですか」
「大丈夫とは言い切れないけれど、何をするべきかは分かったわ」
「できれば、今日だけは王太子殿下と戦争を始めないでください。せっかく十年も婚約してきたのに、儀式の朝に破談になったら、私はどの衣装を片づければよいのか分からなくなります」
「婚約が破談になった場合、あなたが心配するのは私ではなく衣装なのね」
「エララ様は、私が心配しなくてもご自分で何とかしようとなさいますから。それより、銀糸の礼装は王家から贈られたものなのか、ヴェイル家の予算で仕立てたものなのか、そこをはっきりさせていただかないと困ります。王家の品なら返さなければなりませんし、公爵家の品なら刺繍を外して別の礼装へ仕立て直せます」
あまりにも現実的な返答に、エララはしばらく言葉を失った後、声を立てて笑った。
「そうね。もし破談になったら、王家へは一針も返さなくてよいよう、仕立て代を確認しましょう。私の記憶が正しければ、布も銀糸も母の遺産から支払われているはずよ」
「本当に破談になさるおつもりなのですか」
「まだ何も言っていないでしょう」
「エララ様は、嘘をおつきになるときだけ、妙に楽しそうなお顔をなさいます。私は侍女ですから止められませんけれど、後で泣くことになっても、一人で部屋へ閉じこもるのだけはおやめください」
「泣いても、ここにいてくれる?」
「お給金をきちんと払っていただけるなら、泣き止むまでお茶を入れます。ただし、一晩中となれば夜勤手当をいただきます」
「分かったわ。今まで払っていなかった分も含めて、きちんと計算しましょう」
「それは冗談で仰っていますか」
「いいえ。あなたたちの働きを好意や忠誠心という言葉でごまかして、正当な対価を払わないのは間違っているもの」
リナは何か返そうとして、結局、戸惑った顔で口を閉じた。
その様子を見ながら、エララは一度目の自分が、どれほど多くのものを当然として受け取っていたのかを考えた。自分は王家から無償の奉仕を求められ、その理不尽さに傷ついていたのに、屋敷では侍女たちの献身を当然だと思っていた。
被害者だからといって、誰かを傷つけていないとは限らない。
もう一度生きるというのは、自分を殺した者たちへ復讐する機会を得るだけではなく、自分が見ないふりをしてきた過ちとも向き合うことなのだろう。
エララが浴室へ向かおうとしたとき、寝室の外で重い足音が止まった。
リナが姿勢を正し、扉へ視線を向ける。続いて聞こえてきたのは、エララが火刑台の上で最後まで顔を上げてほしいと願い、それでも一度も目を合わせてくれなかった男の声だった。
「エララ、起きているのだろう。儀式の前に話がある。すぐに扉を開けなさい」
一年後、娘の死刑判決書へ署名する父が、扉の向こうに立っていた。
第二十一話 怪物に触れる許可「――エルアリア」 黒竜の口からこぼれた名が、地下牢の岩壁へ低く響いた。 聞き覚えのない名だった。けれど、胸に現れた金色の誓紋は、自分が呼ばれたことを疑う余地もないほど強く脈打っている。 エララは黒鉄の扉を背にしたまま、鎖につながれた竜を見つめた。「今、私を何と呼んだのですか」「エルアリア」「それは誰の名前です」「お前だ」 ケイルの声は、人の言葉を無理やり竜の喉から押し出したように低く歪んでいた。それでも彼の意思は残っている。意味のない唸りではなく、エララへ伝えようとして発せられた言葉だった。「私の名は、エララです。婚礼では、母から与えられた名も含めて、エララ・ルーナ・ヴェイルと申し上げました」「知っている」「では、エルアリアという名を、どこで知ったのですか。母の指輪に刻まれていたのでしょうか。それとも、竜族の記録に残っているのですか」「知らない」「知らないのに、私の名だと分かるのですか」「お前の血が、そう呼べと言った」 黒竜がわずかに頭を動かす。太い首へつながれた鎖が床を擦り、耳を塞ぎたくなるような金属音が響いた。 エララの身体は反射的に強張った。黒い鱗に覆われた竜は、立ち上がれば天井へ背が届くほど巨大で、前脚の爪だけでも人間の腕より長い。牙の隙間から漏れる炎が床の石を赤く焼き、呼吸をするたび、熱と血の匂いが押し寄せてくる。 怖くないはずがなかった。 婚礼で話したように、彼の中にケイルがいることは理解している。それでも、自分を一口で噛み砕ける生き物を前にして平然としていられるほど、人の本能は聞き分けがよくない。「震えている」 黒竜が言った。「はい。怖いので」「ならば、出ていけ」
第二十話 鎖につながれた皇帝 ケイルの背中から噴き上がった黒炎が、天竜の間の天井へ届いた。 翼を広げるように燃え上がった炎は、銀細工の竜を包み込み、華やかな祝宴会場を一瞬で灼熱の牢獄へ変える。悲鳴を上げた貴族たちが出口へ殺到し、倒れた椅子や割れた食器が床へ散らばった。「走ってはなりません。扉は三つあります。身分に関係なく、近い場所から順番に退出なさい!」 イゾルデの声が響く。 息子が黒炎に呑まれかけているにもかかわらず、皇太后は取り乱さなかった。護衛へ指示を出し、楽団員や給仕たちまで逃げ遅れないよう、貴族を壁際へ誘導させている。 それでも、命じる声の合間に一度だけケイルへ向けられた視線には、母親としての恐怖が隠しきれずに浮かんでいた。「陛下、こちらへ」 近衛兵たちが黒い外套を広げ、ケイルを取り囲んだ。 外套には銀色の呪文が刺繍されており、黒炎に触れても燃えない。兵士たちは慣れた動きでケイルの姿を人々から隠し、祝宴会場の奥にある通路へ誘導しようとする。 しかし、ケイルの足は床へ縫い止められたように動かなかった。 彼は炎の向こうから、エララだけを見ている。 金色だった瞳は中心から黒く濁り、瞳孔は獲物を見つけた獣のように細くなっていた。その表情には苦痛と恐怖が浮かんでいるのに、誓紋を通して伝わってくるものは、それだけではない。 飢えだった。 ケイルの意思とは無関係に、彼の内側にいる黒竜が、エララの血と鼓動を求めている。「エララ、下がれ」 唇から押し出された声は、まだ人間のものだった。「近衛兵と一緒に北塔へ戻れ。今夜は部屋から出るな」「その前に、月蝕がなぜ予定より早く始まったのか説明してください。本来は三日後だったのでしょう」「今、話している余裕はない」「三日後なら、あなたは準備をしてい
第十九話 夫婦で踊る理由 始祖の祭殿を出てから祝宴会場へ向かうまで、ケイルは一度も口を開かなかった。 彼はエララの手を離さず、歩調も婚礼衣装の裾に合わせている。けれど、頬へ触れた口づけについて問い返すこともなければ、金色の誓紋や始祖竜の石棺について話すこともない。普段の彼なら沈黙していても不機嫌なのか考え込んでいるのか見分けられたが、今は驚くほど表情が乏しかった。「怒っているのですか」 長い回廊を半分ほど進んだところで、エララは我慢できずに尋ねた。「何に対してだ」「私が、勝手に頬へ口づけたことです」「怒ってはいない」「それなら、困っているのですか」「困ってもいない」「では、なぜ黙っているのです」「何を言えばいいのか分からない」 戦場では何千もの兵に命令を下し、宮廷では気難しい貴族たちを短い言葉で従わせる男が、頬へ一度口づけられただけで何を言えばよいか分からなくなっている。その事実が妙に可笑しく、同時に、エララの胸をくすぐったくさせた。「感想を言えばよいのではありませんか」「感想とは、どのようなものだ」「私に聞かないでください。口づけられたのは、あなたでしょう」「温かかった」「もっとほかにありませんか」「短かった」「もう少し言い方を考えてください」「もう一度してほしい」「それは感想ではなく要求です」「ならば、どのように頼めばいい」「それもご自分で考えてください。私は先ほど、お願いの仕方を考えてから尋ねてほしいと申し上げました」「考えた結果、もう一度してほしいと頼んだ」「考える時間が短すぎます」「要求が単純だから、長く考える必要がない」
第十八話 口づけの前に 始祖竜の石棺が、内側から大きな音を立てた。 祭殿を囲んでいた貴族たちが一斉に後ずさり、何人かは腰の剣へ手を伸ばした。しかし、死者を収めた石棺から現れる何かに剣が通用するのか分からないらしく、抜き放つまでには至らない。 エララの手を握るケイルの指に力がこもった。守らなければならない危険がどこにあるのか判断できないため、彼はエララを自分の背後へ隠すこともせず、ただ、いつでも抱き寄せられる距離を保っている。 重い石の擦れる音とともに、石棺の蓋がわずかに持ち上がった。 中から溢れ出したのは死者でも黒い炎でもなく、目を開けていられないほど眩い金色の光だった。光は祭殿の天井へ昇り、翼を広げた巨大な竜の姿を描いたあと、エララとケイルの胸に現れた誓紋へ吸い込まれていく。 すべての光が消えると、石棺の蓋は何事もなかったように元の位置へ戻った。「今のは、何だったのですか」 エララが尋ねても、老司祭は答えなかった。答えを拒んでいるのではなく、自分でも理解できないのだろう。血の気を失った顔で始祖竜の石棺を見つめ、震える指を何度も組み直している。「始祖の間が開かれたのは、先帝陛下の即位以来、二十九年ぶりでございます。しかし、あのときは祭壇の炎が一度だけ高く燃えたにすぎません。石棺そのものが応じるなど、神殿に残る記録でも読んだことがございません」「記録にないことばかりではないか」 ケイルの声には苛立ちがにじんでいた。「金色の誓紋も、石棺の反応も、何一つ分からないまま、祖霊の奇跡だとでも言って民を納得させるつもりか」「軽々しく奇跡と断じることはできません。ただ、始祖竜が拒絶を示したのであれば、祭殿の炎は黒く燃え、婚姻を結ぼうとした者を外へ押し出します。今回の反応が拒絶ではなかったことだけは確かです」「では、祝福だったのですか」 エララが重ねて問うと、老司祭は長い沈黙の末に首を横へ振った。
第十七話 竜の婚礼 紙の裏側に描かれていたのは、切り落とされた白狼の首を抱え、北塔の扉へ手を伸ばす黒い外套の人物だった。その指には、翼を広げた金色の竜をかたどる指輪がある。 ノクサル皇族だけが所持を許される紋章だと知った瞬間、エララの胸に浮かんだのは、犯人へ近づいたという喜びではなかった。 これをケイルへ見せれば、彼は皇族全員を疑わなければならなくなる。イゾルデへ見せれば、ルマが厳しい尋問を受けるかもしれない。だからといって隠せば、白狼を運び込んだ者を野放しにするだけでなく、自分を信じて絵を残した少女の勇気まで無駄にしてしまう。「朝から難しいお顔をなさっていますね。せっかく謝罪を受け取ったのですから、最初くらいは素直に喜んではいかがですか」 リナは寝台脇へ湯の入った器を置き、エララの手から絵を受け取った。表側を見たときには目元を和らげていたものの、裏返した途端、その表情が引き締まる。「これは、陛下の指輪と同じものですか」「形は似ているけれど、細部までは分からないわ。ルマがどれほど正確に描いたのかも分からないし、犯人の指にはめられていたのが本物だという保証もない。絵だけを根拠に、誰かを犯人扱いすることはできないわ」「けれど、黙っているわけにもいきませんね」「ええ。ケイルと皇太后陛下へ見せます。ただし、その前にルマが自分の意思で描いたものだと確かめたいの。誰かに描かされた可能性も、考えておかなければならないから」「また噛まれるかもしれませんよ」「今度は手を出さないわ」「昨日も最初はそのおつもりだったはずです。お嬢様は用心するとおっしゃりながら、目の前に傷ついた人がいると、ご自分から近づいていくのですから信用できません」「そんなに信用がないの?」「ございます。ただ、お嬢様がご自分の安全を最優先するという点だけは、まったく信用しておりません」 リナの言葉には遠慮がなかったが、その手はエララの右手を取り、包
第十六話 噛みつく小さな竜姫 白狼は、アルブレヒト王家を象徴する獣だった。 深紅の寝具に横たえられた白い胴体からは首が切り離され、その隣へ、まるで眠っているかのように頭部が置かれている。血はほとんど寝具へ染み込んでおらず、鉄に似た臭いも弱い。この部屋で殺されたのではなく、別の場所から運び込まれたのだろう。「触らないでください、お嬢様。こういうものには毒が塗られていると、昔読んだ物語に書いてありました」 短剣を構えたまま、リナがエララの前へ腕を伸ばした。「物語の知識なのね」「物語に出てくる悪党が考えつくことなら、現実の悪党も考えつきます。だいたい、人間というものは、自分だけが思いついたつもりで似たような卑怯なことをするものです」「それは否定できないわね。けれど、これを置いた相手の目的は、私を毒殺することではないと思う」 エララは寝台から二歩ほど距離を取り、白狼の周囲に漂う黒い糸を見つめた。 それは偽りの契約を示す糸とは少し違っていた。誰かが心の中で固く誓った悪意が、実行されたことによって残した痕跡に近い。糸は白狼の首へ絡まり、寝具を這い、開け放たれた扉の外まで伸びている。「殺すつもりなら、わざわざ警告などしないはずよ。これは、私に何かを見せたい人の仕業だわ」「自分ならいつでも殺せると伝えたいのでしょう。十分に物騒ではありませんか」「ええ。だから、ここを動かさずに人を呼びましょう。扉を閉めて、誰も出入りさせないで」 リナが廊下の衛兵を呼ぼうと振り返った、そのときだった。「エララ」 硬い声とともに、ケイルが寝室へ入ってきた。 先ほどまでの正装ではなく、黒い上着を羽織っただけの姿だった。傷を負っているとは思えないほど足取りは速かったが、動くたび、左胸を庇うように肩がわずかに強張っている。「どうしてここにいるのです。お部屋で休んでくださいと申し上げたはずですが